菊田義孝『太宰治と罪の問題』修道社

 

本記事は初めての読書記録になります。

タイトルに「ヒモ的思考・読書記録」と堂々と記載しながらも、一つも出していないことに今更気づきました。詐欺ブログになってはいけないと思い、焦って走り書きをしました。よって稚拙な表現になっている部分があると思いますが悪しからず。

ちなみに僕を詐欺師ではないと信じてくれる方は、是非とも前回の記事もお読みくださいな・・・。

 

古書探索(定期)

白山通りと靖国通りが大きく交差する神保町交差点のすぐ東側、ハヤオビルの古びたエレベーター(このエレベーターがいつも恐怖。荒船かのごとくグラグラ揺れすぎ)を使い、6階まで上がると「けやき書店」があります。日本近代文学を中心に扱う隠れた名店で、多くの初版本、サイン入り本が所狭しと陳列されており、訪れる度に涎がジュルジュル出てきそうな勢いです。

奥の棚の一角に太宰コーナーがあり、いつもここで30分~1時間ぐらい片っ端から漁りまくります(猫背で一心不乱に太宰のコーナーにしがみついているので、最近は店主からも危険人物とみなされているでしょうね)。今回紹介する本は先週そこでバサバサと複数購入したものの一つになります。

概要

著者の菊田義孝(1916~2002)は、明治大学文芸科卒の文芸評論家であり詩人です。戦前から戦後にかけて太宰の三鷹の家(三鷹市下連雀2丁目14番7号あたり)を多くの若い門下生が度々訪れており、菊田もその一人でした。本書は菊田が昭和16年夏に初めて太宰の家を訪れ、以後太宰が入水自殺するまで密な交流を図り、その思い出や思想記録をまとめた菊田の自伝です。

本書は「浮草」「邂逅と別離」「太宰治と罪の問題」の3章に分かれており、「浮草」が昭和17年、「太宰治と罪の問題」が昭和35年、「邂逅と別離」はその間に書かれたものです。太宰と出会ったばかりの菊田の口調は、太宰への心酔ぶり、緊張感が如実に表れています。しかし、後半の作品に行くにつれて、菊田自身と太宰との思想の違いを客観的に見出そうとし、特に太宰のキリスト教観について情熱的に分析するさまが散見されます。呼び方も「太宰さん」→「あの人」→「彼」と徐々に俯瞰的に変化しているのも面白い。

男でも惚れてしまう、「太宰治」

本書の「浮草」において、20代の菊田が、生前の太宰への印象を語る部分がありますが、その表現がたまらなくいい。

黄昏というにはまだ少し早かったが、それでもどこかに、ほのかな夕色が漂っていた。そのなかで、ふと横から見上げた太宰さんの顔に、淡い憂色    ―いわば黄昏の憂愁、とでもいいたい、遣る瀬なく疲れたようなかなしみの影が、微かに漂って見えたのである。酸鼻の極― と誰かが言った。太宰さんの青春の一時期。そのはげしい苦難の渦中から、浮かび上がってきた顔である。

僕が写真集のモノクロ写真でしか見たことのない印象を、菊田は生の太宰を隣で見上げて、ありありと表現しています。菊田の優れた人物描写で、僕は嫉妬心を通り越し、心底から菊田を羨ましくなってしまった。「美しく滅ぶもの」の唯美性を徹底的に表現し、自らもその美に殉じようと、己と、世間と、神と戦う「言葉の芸術家」の横顔は、どんなに美しかったであろうか。太宰ファンならばこの短文だけで妄想に拍車がかかるところかもしれません。

また菊田と太宰の会話、これまた良い。

「あの、太宰さんの小説に出てくる、海に入って死んだ女の人、あの人のことを思うと僕は、寂しくって・・・・」

 言いながら太宰さんの顔に目を据えていると、私は目に微かながら、涙を浮かべることができた。そしてそのうえ、わっと泣き出したい気持ちでいると、太宰さんは目を丸くして私の顔を見ていたが、

「君でさえそうだもの。ぼくはどんなに寂しいか、しれないよ」  

 思いなしか、打消すような、早口であった。

いやいや、実際あんた女と入水して、女の人が死んで、自分だけ助かっといて何をほざいとるのかと突っ込みを入れたくもなりますが、何かこの吹っ切れ具合、機知に富んだ太宰の返しがカッコよく思えてしまいます。何もかもやらかしてしまい、恥の上塗りのような生活を送る太宰の窮地の言葉は、背景にある作品レベルの高さと交錯して、どこか浮つき、どこか悲哀で、しかしユーモラスで、魔術的な性質を帯びてしまっています。太宰の家に訪れた三島由紀夫の「僕、太宰さんの文学は嫌いなんです」という言葉に対し、「だったら来なけりゃいいじゃねえか」「でも来るってことは好きなんだよなぁ。なあそうだよなぁ」という有名な返事も想起させます。

神の許しが欲しいのではなく、神の罰が欲しい

そして本書の見どころは、やはり菊田による太宰のキリスト教観の解説です。太宰は創作の傍ら、キリスト教研究に没頭していたことは有名な話ですが、終生信者になることはありませんでした。信仰をせずとも、何故太宰はキリスト教思想に異常なほどの執着をしたのでしょう。菊田は、太宰の共産主義運動(コミュニズム)に代わる「感動の源泉」として、「聖書」の思想を選んだと言っています。また太宰研究家の奥野健男は、共産主義運動を脱退した理由として、革命のため手段を選ばない(言うなれば暴力も辞さない)政治活動に、心が傷つき耐えられなくなったと言っています。

なるほど、隣人愛の下、他者を傷つけず、自己だけを傷つけ、自らを十字架につけながら革命的な文学を描いていくことは、幾分刺激的なことだったに違いないでしょう。そして太宰は、そのキリスト教思想も、本来のものとは違った「オリジナル」のものに捉えていくようになりました。それがタイトルにもあるように、「神の許しが欲しいのではなく、神の罰が欲しい」ということ。

菊田は太宰についてこう言っています。

彼は神の裁きを、絶えず己の膚を指す鋭利な刃物の切っ先のように、自覚しながら、その痛みの自覚の中に新たな「感激」をもって生きるみちを見出したのであった。

太宰にとって福音主義の「神の許し」は、どこか信じられるものではなかった。ただただ神から断罪される自己だけを信じた。私見によりますと、「人間失格」に出てくる葉蔵のように、実際の太宰も「自分は何もしていない」「自分は無抵抗であった」ということに罪意識(人間失格では犯人意識と言っている)を感じました。すなわち「何もしていない」ことに罪意識を持つことは、「何もしていない」意識があるのに、結果「悪いこと」が起こってしまうから、「何もしていない」ことに強い罪意識を感じてしまうのではないかと考えました。

菊田は「道化という、誰かを欺くうしろめたさという程度の犯人意識に過ぎない」と言っているが、僕はそれだけでなく、「道化」を生み出すもっと奥にある、上記のような太宰の根幹の意識があるのではと捉えました。そして、その性質を、太宰は完治できない「宿命」として背負い、神の許しなど受け入れる必要性もなくなった。そして自らの「宿命的文学」の美に華を添える形で、キリスト教的サクリファイスを取り入れたのでないか。こうも考えるのです。

僕は初詣に人生で一度も行ったことがないくらい、信仰心も何もない人間なので、太宰と同じ、「神の許し」的な発想もさらさらないのです。また、自分の罪意識ゆえに、自分を死に追いやるほどの高尚な自己犠牲精神も持ち合わせていないですわ・・・。

 

参考文献

永野 悟『菊田義孝年譜作成にあたって』(文芸誌 群系)

wikipedia『三島由紀夫

奥野健男『人と文学』(新潮社)

太宰治『人間失格』 (新潮社)